=1日目=
東京から新幹線で郡山へ。当初の予定では、新白河で下車して「聖ハリストス教会」に立ち寄り、山下りんのイコンを見る心算だったのですが、教会が改修工事中とのことで断念。でもいつか見たい。
郡山から磐越西線に乗り換え、いざ会津若松へ。JRが結構力いれて会津のPRしてるので(「あったんです。まだ、極上の日本が・・・」ってゆーキャッチコピーのやつね)そこら中にマスコットキャラ「あかべえ」が・・・。・・・何だか見つめれば見つめるほど、赤べこの何たるかを見失いそうな顔をしてます。笑
まずは、駅で荷物をホテルに送ってもらう手続きなどを済ませ、ようやっとバスへ乗り込み目的地へ!
最初の見学場所は「会津藩藩校・日新館」
若松市内郊外ってゆー位置づけなんですが・・・思った以上に田舎だった・・・。笑
ここです。
江戸時代、特に幕末の日本の教育水準というのは驚くほど高いナァと思うのですが、その中でも更に「全国随一」と言われた会津藩士の教育が行なわれた場所です。
福島県は本当に観光業(歴史に関する)に力いれてるナァという感じで中に再現されている部屋には等身大の人形(白虎隊隊士の少年時代)が置かれていて、子どもたちが何処で何を学び、どのように暮らしていたのかが見られるようになっています。
生徒は1000人ほど通っていたということで、敷地も広大。日本初のプールという水練場なんかもあります。(鎧つけたまま泳いだらしいよ・・・)
本来は、五大藩主が鶴ヶ城の隣に建てたものだそうですが、莫大な時間と費用を惜しげもなく割いたということは、余程人材育成の重要さを知っていた先見の明のあるお偉方だったということでしょう。
日本の現在のお偉方にも見習って欲しいね。
もうちょっとじっくり見たかったのですが、昼食やバスの時間の微妙な遅れなどの影響で断念。そして会津村も到底行く時間がありませんでした。
本当に電車・バスの本数が少ないので・・・車があればナァ・・・と思いましたよ。
次は、若松駅に引き返し、会津鉄道で湯野上温泉駅へ!
いい感じの駅でしょう。そこから更にタクシーで15分ほど行くと・・・
お待ちかねの「大内宿」!!!
端から端まで歩いても十分ほどなんですが、そこにある家々は江戸時代のままの佇まいなんです。かやぶき屋根のお家が並んでいる奇跡のような村ですよ。
ちょっと高台から見下ろすとこんな感じ。
こっちは大内宿の軒並みのちょうど真ん中辺りにあった鳥居。色も塗られてなくて、木そのままの曲線が残っている不思議な鳥居でした。(携帯撮影)
もう夕方になってきてるのにものすごーい暑くて(多分、盆地だから)かき氷食べました。そして更に引き返す道の途中でトマトを!
道の両脇の溝に水が流れているんです。で、それがものすごく冷たいもんだから、通りの店はそこで飲み物や桃、きゅうり、トマトなどを冷やして売ってるんですよ!しかもその日の朝の取れたてです!
トマトまるかじり、初めてやりましたがめっちゃ美味しかったです。
ちなみにホテルのお夕飯(バイキング)でも有機野菜ってコーナーに丸々一個トマトがあったのでまた食べました。一日にトマト丸2個!!!
余談ですが、バイキングとかってなると自分の好きなもの取るわけじゃないですか。
・・・・・・・・・・・私くしの場合、気がつくと野菜と果物だけになってます。
「「たんぱく質ないじゃん!」」と母&兄からダブルでつっこみを喰らいまして焼きえびを追加しました。野菜がすきなんだよー。
=二日目=
二日目は会津若松市内バス「ハイカラさん」に乗って市内観光です。
これがハイカラさん。ちっちゃいバスです。このワインレッドのと緑っぽいのと2種類です。(携帯撮影)
先ずは会津藩主の居城だった鶴ヶ城へ!
私くしが知っている範囲の歴史では、二代将軍・徳川秀忠の落胤で家光の腹違いの弟にあたる保科正之(土津公)から九代・松平容保公までの所謂「会津藩主」の居城としての存在だったのですが、案内してくれたボランティアガイドさんによると、このお城の歴史は戦国時代の大名・蒲生氏郷公から始まるそうです。豊臣秀吉からこの地を拝領し「若松」という町を作ったのも彼だとか。
ちなみに、それより前には同じ場所に「黒川城」という城があり、伊達政宗の勢力下だったそうです。
そして秀吉の死後、家康の時代になると蒲生氏は宇都宮に移され、この地には彼の有名な上杉謙信の息子・上杉景勝が入りました。しかし、この上杉氏も関が原の戦いで敗れて、会津120万石から米沢30万石へ減封されます。
その後、再び蒲生氏がこの地へ戻りますが、二代で血筋が絶えてしまいます。そこへ加藤氏が封じられます。二代目の加藤明成は町の整備や城の改修工事を行ないましたが、ある事件が元でこの領土を召し上げられ、加藤時代は十五年ほどで幕を下ろします。
その後、この地を拝領したのが保科氏(三代目から松平姓)だったわけです。
以上、旦那なら理解してくれそうな話題。笑。
さて、その鶴ヶ城ですが、戊辰戦争・会津の役の際に官軍のアームストロング砲による攻撃を受けてボロボロになったものの何とか形は保たれました。
しかし、明治七年には明治新政府によって取り壊されてしまいました。
現在は、大手門と天守閣のみが復元されています。
ただ、城の土台となっていた石垣だけは当時のもの(蒲生時代のもの、加藤時代のものといろいろです)が残されています。今の技術では到底敵わないほど頑丈に積み上げられていて、しかも古いものほど強度が高いそうです。恐るべし先人の知恵。
鶴ヶ城では、残念ながら天守閣の中の資料館まで見学する時間が無く(バスが少ないから!泣)もう一度ハイカラさんに乗り込み、今度は「会津武家屋敷」へ。
ここは江戸時代の武家屋敷を再現したもの(具体的には、容保公の家老・西郷頼母の屋敷の見取り図を参考に作られた)がある場所です。こういうのを作ることを考えても矢っ張り行政が歴史保存のためにがんばってるよナァと感心させられます。私くしにとっては一つ一つの部屋や仕組みが興味深かったのですが、母や兄は鳥渡退屈だったかもです。申し訳ない。
で、その武家屋敷に何故か「弓道体験コーナー」がありまして、ひなたとおあにいさまでチャレンジしました。これが的が小さくて小さくて大変なんだ・・・。おあにいさまは勿論、私くしも腕の筋肉発達してるほうなので、飛ばすには飛ばせるんですが、到底当たるようなモンじゃありません。四本打って当たった本数ごとに景品があるんですが、私くしたちも見た限りの他の人たちも、誰一人景品を取ることは出来ませんでした。
弓道の図。一応プライバシー等考えて鳥渡ばかし画像に加工を施してみました。・・・笑うな笑うな。お隣はおあにいさまですが、顔見えてないしいっかぁ。
続きましては、白虎隊自陣の地として有名な飯盛山方面へ。
白虎隊について簡単にご説明します。
十五代将軍・徳川慶喜は、政権を朝廷に返還する(大政奉還)と、まだ会津藩や新撰組が官軍(薩摩・長州など)と戦ってる間に、さっさと江戸へ帰り絶対恭順を決め込み、家禄の返還などの官軍の要請にもすべて応じる態度を示しました。
これで、官軍は慶喜の首までとることは出来なくなってしまったわけです。しかし、例えばフランス革命などを考えると分かりよいと思いますが、新しい政権が起こるときにはその証として、歴史は前時代の代表者の「血」を欲するものなようです。
官軍の矛先は、恭順の意思を示す慶喜を逸れ、佐幕派の巨魁・会津藩へと向けられることとなりました。
その会津藩は、鳥羽伏見の戦いなどで既に多くの戦力を失っていました。また、それまでの古い軍制を改める必要性から、押し寄せてくる官軍に備えてフランス式の軍隊を作っていました。
そのときに、年齢別に四つの部隊を組んだのです。即ち、
玄武隊:50歳以上
青龍隊:49歳以下、36歳まで
朱雀隊:35歳以下、18歳まで
白虎隊:17歳以下15歳まで
主戦力は青龍隊と朱雀隊で、玄武隊と白虎隊は予備部隊という扱いでした。
ところが新政府軍が会津藩を圧倒し、国境まで迫ってくると、若い白虎隊隊士たちは、自ら家老に嘆願し、いつでも前線へ出られる部隊へとなったのです。
そして、1868(慶応4)年8月22日とうとう白虎隊への出撃命令が出ます。
彼らの任務は、戸の口原で新政府軍と戦う味方に援軍することでした。
ここで彼らは霧のたちこめる中、新政府軍と戦いますが、やがて四方を取り囲まれ追い詰められていきました。その場に隊長がいなかったため、年上だった篠田隊士が退却命令を出しました。この退却の中で隊はばらばらになり、篠田隊士の周りには二十人ほどの隊士のみが残されました。
彼らは負傷者をかばいながら、鶴ヶ城目指して飯盛山を退却していきましたが、その中腹に差し掛かったころ、頼みの綱であった鶴ヶ城が黒煙に包まれているのを目撃します。
実は、そのとき炎上していたのは城下町で鶴ヶ城自体は無事だったのですが、彼らはお城が落ちたものと思い込み、「会津藩もこれまで」とその場で自刃する道を選んだのです。ただひとり、飯沼貞吉という名の隊士が死に切れずにいるところを保護されましたが、この事件の顛末についてはかなりの年月がたってから漸く口にするようになったということです。
彼らは数え年の17,16歳といいますから、現在で言えば中三か高一くらいの年齢だったはずです。
これが有名な白虎隊の悲劇の一部始終です。
まずは、白虎隊記念館というところに行ったのですが、マァ会津藩関連、白虎隊関連、新撰組関連と置いてあるものは多いのですが、陳列が余りにごちゃごちゃしてて私くしならなんとか、それなりに興味あるものを見つけ出して楽しめたのですが、母と兄には不評でした。笑。
その後は、容保公が白虎隊に出撃命令を出したという旧・滝沢本陣へ向かいました。
ここも、観光業やる気があるのかないのか・・・。滝沢本陣!としての資料は少しで、そのほかは東北地方の古い民家と人々の暮らしに拘わるような資料が、とくに説明もなく並べられていました。
というか、私くしがこの滝沢本陣、私くしのイメエジとはエライ違っていました。歴史を言えば、ここは会津藩主が参勤交代で江戸に向かう際に立ち寄った休息所であり、戊辰戦争のときには大本営として使われた場所であるはずなんですが、イマイチ・・・・なんかそのイメエジがわきませんでした。だって普通の民家なんだもの!!
唯一、戊辰戦争の名残を示すのは、押し寄せた官軍によってつけられた柱の刀傷や壁、障子の弾痕です。
マァでもこの建物に容保公は勿論のこと、土方さんもいたのよねェということを一生懸命想像して満足することにしました。笑
そんなわけで、容保公や土方さんが見たかも知らない庭。だんだん可哀想な子になってきたナァ。
つづきましては、さざえ堂
ここは白虎隊ちっとも関係ありませんが、面白げな場所だったので訪問。
見てお分かりの通り。さざえです。ってか巻貝です。明らかに見た目が変ですが、入ってみると更に変!!階段はなく、ぐーるぐーると螺旋状の坂道を登っていくのです。中に何か祭ってありますが、暗くてよくわかりません。そうしてぐーうぐーる上っていくと、頂上に着きます。しかし、そこでUターンはしないのです。そのまま前進し、別の坂道をまたぐーるぐーると降っていきます。そうすと、入り口の反対側にある出口に辿り着くわけです。
国の重要文化財にも指定されているというなんともけったいな建物です。んで、なんでこんなけったいな建物を建てたのかを調べたのですが、理由もまたけったいなものでした。
「西国三十三観音」というものがありまして、その札所を全部めぐろうぜ!という巡礼があったのです。マァ、四国のお遍路さんみたいな。もっと分かりやすく言うならスタンプラリーみたいな。(エエー)
だけど、会津に住んでる一般民衆には到底そんなたび無理なわけですよ。
じゃ、何かお手軽に出来る代わりのモンを・・・ってゆーことで、出来たのがこのさざえ堂。中のスロープに沿って西国三十三観音像が安置されてるので、参拝者はこのお堂にお参りするだけで三十三観音参りができるよ☆合理的だね!・・・とゆーものなわけです。
んで、なしてのぼりと下りが同じ道じゃないのかねというと、上りと下り一方通行の構造にしたことにより、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りができるのさ☆
だそうですよ。
なんつーか・・・いい度胸してますよね。しかも近くには「ピサの斜塔とさざえ堂は見とくべきだ」的な俳句の碑まで立ってましたよ。そろそろ笑っていいのかどうかさえ分からない。
二日目はこの後、若松駅に引き返し磐越西線にて猪苗代へ!そっからバスでホテルにいって終わりでした。
勿論夜はサッカー観戦ですよ!(テレビが小さいと兄さん文句を言っていた)



城見たいーーーかやぶき屋根みたいーーハイカラさんのりたい。笑 なぜさん付け?敬意?
白虎隊、名前しか知らなかったけどそんな衝撃的なものだったんだね。自刃ってやっぱ切腹・・痛いタイ
というか、私も振袖ほしい!
成人式私も行く気ないけど、着物だけは着たいなぁ。
やっぱドレスより着物だよね。大人になったら(あと2年だけど笑)着物の似会う粋な女になりたひ